Monday, July 30, 2012

Bitter Herbs


苦いハーブ

ある時、一人のユダヤ人と一人のドイツ人が一緒に旅行しました。ユダヤ人たちがドイツ人に共感を覚えるように、ユダヤ人はドイツ人にユダヤ人の振る舞い方を教えました。(と言うのも、二人の言語でさえ似ていたからです。)

過越の祭りが近づいてきたので、ユダヤ人はドイツ人に過越のセデルに招かれた時の振る舞い方を教えました。ユダヤ人はドイツ人にキドゥーシュや手を洗うことなどを教えましたが、苦いハーブについて説明するのを忘れました。

ドイツ人は丸一日絶食したあと、セデルに参加しました。彼はユダヤ人が話したおいしい食べ物を食べることを期待していました。ところがセデルの習慣により、ユダヤ人たちはドイツ人に塩水につかったセロリの小さなかけらしか出しませんでした。そのあと、ドイツ人が食べ物を食べたくて仕方ないときに、ユダヤ人たちはハガダーを唱え始めました。

ユダヤ人たちがマッツァーを食べ始めた時、彼はほっとしました。しかしユダヤ人たちが彼に与えた苦いハーブを食べた直後、とても刺激のある味が口の中に残りました。彼は、これで食事は終わりだ、これが自分が食べることになっていたものすべてだと思い、腹を立てて家から飛び出しました。彼は「バチ当たりのユダヤ人め。儀式が全部終わったあと、彼らが与える食べ物はこれだけなのだ」と思いました。それで彼は学習室に戻り、寝てしまいました。

あとになって、ユダヤ人が食べ物と飲み物に満足して赤い顔をして戻ってきました。「セデルはどうでした」と彼はドイツ人に聞きました。

ドイツ人が怒って自分の気持ちを説明すると、ユダヤ人は「バカなドイツ人だ」と言いました。「もう少し待っていれば、私のように豪華な食事を食べられたものを」

神につかえることについても、とりわけラビに従っているときに同じことが言えます。ラビに近づいたり、神聖な儀式に参加するために人が経験する苦しみや努力のあとで、体の不調を直すために、「苦いハーブ」が与えられるのです。ところがドイツ人は自分はこの苦さを永遠にがまんしなければならない、つまりそれがただの苦みでしかないと考えて逃げ出したのです。彼がもう少しがまん強く、体の調子を整えるためにほんのちょっとの苦さに耐えることができれば、あらゆる種類の精神的な喜びを経験できたのです。神につかえることにおいてはまさにそうなのです。人はまず体を整えるために苦いハーブをがまんして、そのあと喜びを経験するのです。

No comments:

Post a Comment

Note: Only a member of this blog may post a comment.